自分の目の前に見えていること、それが全てである。そう感じてしまうのは普通だと思います。 けれど、目に見えていない部分もものすご〜く大切だったりしていますよね。 例えば、医者は子供の発育についてみるとき、「目の前に見えている様子」で全てを判断します。 しかし、「医者の前でいつもの通りでいられる」とは限らないんですよね。 見知らぬ人の前で何かを言おうとしたりする時、またはチェックなどを受けているとき。 普段どうりの自分でいられますか?誰でもいられないんじゃないかなぁ〜と思うんです。 少しはなしは飛びますが。私の最も影響を受けた本の一つに。 「ローラ叫んでごらん −フライパンで焼かれた少女の物語−」というものがあります。 赤ちゃんの頃に、アルコール中毒の両親によって「フライパンで焼かれる」という虐待を受け。 言葉を全く話せず心を閉ざしてしまった少女(ローラ)と、精神科医(筆者)との心の交流(というよりも戦い)の本です。 最終的に、ローラは看護婦として社会復帰を果たすまでにいたります。 どうやら、その筋ではものすごく有名な本らしいのですが。 この本の冒頭部分に、筆者自身の過去について触れられています。今回はちょっとそれにスポットを当ててみます。 (若干うろ覚えなのは5年以上前に読んだ本の記憶だからと言う事で(苦笑)) 筆者は幼い頃「知的障害児」として、養護施設で過ごしています。 何故、知的障害児として扱われてきたかというと、筆者自身の性格と、そして 「両親が英語を理解できなかった(舞台はアメリカ)為に、学校からの再三の連絡が理解できなかった」 と言う事があったのだそうです。 しかし、養護施設の教師が筆者が決して知的障害児ではない、優秀な生徒であると言う事を見抜き。 そして、その才能を伸ばして。最終的には学校側に納得させられるだけの能力を人前で発揮できるように教育したのです。 筆者は、もしその養護学校の先生に出会わなければ…ずっと知的障害児としてすごしていただろうと。 その養護学校の教師との出会いを感謝しています。 「目の前に見えていること」というものは、時にその相手の本質とはずれてしまっています。 自分が見えているものが、相手の本質全てであると思い込んではならないと思うのです。 医者や、教育関係や偉い人が「こうである」といったからといって、それが全てではない。 だから、嫌なことを言われたってそれを鵜呑みにする必要はない。 けれど…やっぱり自分だって自分の目に見えているものを信じる。 某知り合いが言っていたんだけど「貴方の性格を判断するのは貴方ではなくほかの人である」 つまり、「他の人からどう映っているのか?」というのが重要だったりもするのである。 自分はこういう性格じゃないんだと言っても、そ〜ゆ〜性格に他の人の目には映ってるんだから仕方がないじゃない? 違うって否定するためには、違うところを見せなきゃいけない。 明らかに違うことを示せたから…「ローラ叫んでごらん」の作者も認めさせることが出来たのである。 本当の自分を理解してもらうことは難しい。 けれど…そのための努力をしないで、理解されないと叫んでも届かない。 理解されたいと願うならば、理解してもらうための努力を怠っちゃいけないんだ。 誤解されたんだったら、それは解くために動かなきゃいけない。 まだ、取り返しがつくうちに… |
2003/2/26
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