自分一人ではないって言うこと


大学に入って、そしてやり直せると思っていた恋愛にも人間関係にも失敗した10月頃。
私はチャットと出会った。
YAHOOでの検索単語は「チャット 初心者」
そして、いくつもあるチャットのうち人がいたチャットに住み着くようになった。

そんなチャットの中の一人と1対1で話をしている時。
どうしてそういう話になったのかのきっかけは覚えていないけれど、その彼(仮にO君としておこう)も、
「父親を嫌い、そして父親のような人間になるのではないか」
ということにおびえていることを知った。

「親戚に父親にそっくりだと言われる。そのことが怖い」
これは私が昔から抱いていた感情であった。
親戚にとって褒め言葉である。しかし、私にとっては自分を否定されている言葉だったのである。
なぜならば、私が幼い頃言葉がうまく発音できなかった原因が、
父親の『ニグレクト(無言の虐待)』のせいではないかというのを聞かされていたし、
母親が私を責める時の怒り方が「父親の(悪い部分に)そっくり」ということであったから。

ニュースやドラマなどでは家庭環境の不和が上げられていたりする。
しかし、そういうのは全て「どこか遠い世界の物語」とか「特殊例」として意識してしまう。
『自分だけ…』の孤独な世界に閉じこもってしまうのである。それが、実際に話をしている相手も同じ事を考えている。
『自分ひとりではないんだ』そのことが一体どれだけ救いになったことか。
そして、高校時代までの友人もまた、話をしてみれば同じように何かしらの問題を抱えていたということをはじめて知った。
そう、程度に違いこそあるかもしれないが、誰もが悩んでいるのである。

自分を否定することだけしかできない時。その苦しさを、一人で抱え込まなければいいと思う。
一人で抱え込むには余りにも辛いんじゃないかしら?
だから。誰かに、その苦しさを話してみたらどうだろう?
もしかしたら、同じような苦しみを相手も抱えているのかもしれない。
家族や大切な人に話すことも時として重要だと思う。
貴方の周りの人は「貴方が苦しんでいる」事に悩んでいたりするのだから。
「相手を悲しませたくない」そう思っても。
貴方が一人で抱え込んでいるところを見つめ続けることもまた、家族は辛いと思う。

私はO君と話している事によって、自分自身を否定する気持ちを忘れることが出来た。
今振り返ってみれば、当時の状態は『傷のなめあい』であったのだろう。
なぜなら、「そうならないためにはどうしたらいいのか?」など建設的なことは全く考えていなかったから。
そして、『傷のなめあい』だけでは何も変わらないことを、彼から痛切に知らされることになるのである。

肯定 〜認識〜 に続く
2002/11/07

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